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野沢富士子さんからのメール

 ベアテさんのことをエントリーしたら野沢富士子さんから長いメールをいただいた。野沢さんが友人たちに送った文章だ。まったく同感なので、彼女の許可をもらって、エントリーしておく。僕の返事も含めて。

「ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去 2012年12月30日
すでにご存知かとは思いますが、ベアテさんは日本国憲法の草案作成にかかわり男女平等に関する条項を起案した女性です。89歳だったそうです。
 自民党政権が復権を果たした今、日本国憲法が脅かされるような雰囲気がうまれつつあり、私は深く憂慮せざるを得ません。安部政権は憲法は押し付けられたものと解釈しているようですが、幼少期を日本で過ごし日本の軍国主義や女性の地位の低さを身をもって体験した経験がベアテさんの男女平等の大切さを憲法に組み入れるという行為にいたったのだと思います。
 先日、偶然のようにベアテさんの父であるレオ・シロタを題材にしたドキュメンタリー映画を見る機会に恵まれました。題名は「シロタ家の20世紀」というもので、監督は2005年には「ベアテの贈り物」も世に送り出しているドキュメンタリー映画の藤原智子さんです。場所は私の連れ合い野沢が愛して止まない建築家吉村順三設計の園田高弘邸でした。
 レオ・シロタはロシア領であったウクライナの出身で、19世紀の末から始まったユダヤ人であるが故の迫害と第二次世界大戦のホロコーストから逃れようとキエフに移り住み、ピアニストとして全ヨーロッパで活躍しました。そして1929年から17年間日本においてピアニストの育成と演奏活動を行い、このため幼いベアテさんは日本での暮らしを経験することになったのです。
 その後ベアテさんはカリフォルニアのミルズ大学に入学のため渡米したものの両親は日本に残りましたが、1941年真珠湾攻撃によって親との連絡を断たれました。その頃には英語、日本語だけではなくフランス語、ドイツ語、ロシア語とスペイン語も流暢に話すだけの才能を身につけていたそうです。
 戦後ベアテさんは1945年1月にアメリカ市民権を得た後、両親を探すべくマッカーサーの部下の1人として日本に赴任する決心をし、日本にもどりました。マッカーサーの最初の仕事の一つが日本国憲法の作成でした。これは秘匿の任務であり、作業が始まったのが1946年の2月であり、わずか7日のうちにつくりあげるというものだったそうです。作業チーム20数名中ただ1人の女性としたこの重大の任務に参加したベアテさんは若輩の22歳で任されたのが日本女性の権利の部分でした。与えられたわずか7日間の短い時間でベアテは焼け残っていた図書館で多数の国の憲法を調べ尽くした末草案をかきあげたのでした。それは法の下の平等や婚姻における両性の平等につながる内容を起案したばかりではなく、GHQと日本側の交渉では通訳者としての努めもはたしたのです。
 今まさに日本国憲法の最も大切な9条が脅かされそうになってきました。ここ数年ベアテさんは日本を訪問するたびに9条の大切さをわれわれ日本人に説いてきました。彼女にとって平和条項9条と女性の権利を含む男女平等をうたう24条は彼女の愛する日本人への贈り物と私はとらえています。彼女はいつも 「日本の憲法はアメリカよりすばらしい」といいそのすばらしい憲法が日本人の日々の暮らしに根ざすことを願っていたと「天声人語」で述べています。
 9条を変えることなく自衛隊によるPKO国連による平和維持活動を可能にしたのが前小泉政権でした。なぜいま憲法改正が必要と安部首相が唱えるのか、私たちは深く深く考えることをしなければなりません。一端失われたものは福島の惨事をみても明らかなように二度と戻ってくることはないのです。
 電気は足りている、そして自然エネルギー転換までの道筋は容易ではありませんが、電気代が値上がりするといっても今の2倍という規模ではないのですから反原発をつらぬきましょう。そして純粋な22歳のベアテという名の女性が日本人のために草案した男女平等を生活のなかから実践し、戦争放棄というどの人間にとっても人間が人間らしく生きる権利を脅かす戦争をなくすための日本国憲法9条をまもりましょう。
 考えているだけでは意思表示できませんので、機会をみつけて立ち上がり行動をおこしていきたいと思う2013年の年明けでした。
 皆様にとって2013年が明るい希望にみちた年になることを心から願っています。そして私がまだ出会っていない人々にも平和と幸福を願います。
                                野沢富士子」

以下、僕の返信

「富士子さん
 今年もよろしくお願いします。あなたの手紙、まったくもって同感です。暮れから今年にかけて同じ事を考えていました。12月に埼玉県宮代町で富 田玲子さんたちと「シロタ家の20世紀」の上映会をし、同時に東欧の音楽会を開きました。
 今、民俗学者の宮本常一の全八巻からなる講演集の編集をしていますが、その中に「明日を信じて生きる」という講演があります。だれでもしあわせを求めるが、ほんとうにしあわせとは何かと、宮本は高校生に問います。そして、宮本はしあわせとは信じることのできる明日があることだと言います。しあわせを求めるならば信じることのできる明日をつくらなければならない。私もそう思 います。この講演のなかで、以下のような日本国憲法ができたときの逸話が述べられています。ちょっと長いのですが、引用します。
「わたしの恩人に渋沢敬三という人がおります。渋沢敬三はそのおじいさんが渋沢栄一という実業家で、その孫にあたる人です。ちょうど終戦の後の幣 原内閣のときに大蔵大臣をやっておられた。わたしはそこで居候をやっておったんです。居候を二三年ほどやったんです。渋沢先生から居候を二三年も やったのは日本にはおらんから、お前は日本一の居候だといわれたんです。
 その渋沢先生が大蔵大臣のときに、いまの憲法ができるわけなんです。いまでもよくおぼえていますが、先生が外から帰って来られて、「おい、今度で きる憲法はすばらしいもんだぞ。完全に軍備をもたないで戦争をしない。それを憲法のなかで謳うんだ」と。これは幣原(幣原喜重郎 一八七二〜一九五一年)さん、当時の総理大臣ですね、幣原さんの考えなんだと。むろん戦争をしないことを謳う、それはマッカーサー司令部より強くいわれて おったことですけれども、軍備までもたないということは幣原さんの考えなんだと。「まったくすばらしいことではないか」、こういうふうに先生がも どって来ていわれたんです。
 そのとき、わたしはびっくりしたんです。「そんなことってできるのですか。軍隊をもたない。また戦争をしないっていうことは可能なんですか」といいました。そのときに先生のいわれた言葉が、じつにわたしには考えさせられる言葉だったのです。
 「できるか、できないか、やってみることなのだ。いまからできないと考えることのほうがまちがっているんだ。どんなに苦しくとも、それをやってみ ることなんだ。そして、そこに新しい道を見出していくことだ。それがあの大きな戦争を引き起こした者の責任ではないだろうか」と。こういうことをいわれたんです。非常にすぐれた言葉であったと思うのです。」(「明日を信じて生きる」より引用)

 私は日本国憲法は廃墟の青い空の下で歌われた「イマジン」だったと思うのです。日本国憲法のなかには、軍備をもたないこと、かつ男女平等が書かれています。ここでの男女平等は、イラクでイラク人を侮辱するアメリカの女兵士のように、女が男になることではないと、私は思うのです。上野千鶴子のいうフェミニズムに近い思想ではないかと思うのです。ベアテさんの願ったこともそうであったと思います。
by komachi-memo2 | 2013-01-04 12:12 | Comments(0)