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嘴の折れたツグミ

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今日、散歩の途中で桜の木の枝に止まっていたツグミ。家に戻って写真をよく見ると、上嘴が折れて欠損している。これでは採餌は不可能だろう。昨年も道路を歩く嘴の折れたツグミを見たが、バードストライクの直後に命を取りとめたとしても、その後に過酷な運命が待っている。

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by komachi-memo2 | 2013-01-27 18:45 | 探鳥 | Comments(0)

奥村昭雄先生を思い出す会の準備開始

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 奥村昭雄先生を思い出す会を桜の咲く時期に開催しようと、奥村先生を古くから知る仲間と今、計画を練っている。しんみりした会はやめよう、楽しい会にしよう、と。
 場所は目白の明日館しかない。ライト設計のこの建築の保存運動に、先生は故・遠藤楽さんらと深く関わった。あの保存運動がなければ、今われわれがこの重要文化財を目にできなかったことだけは確かである。
 数日前、10人の仲間が集まって、今年2回目の準備会が行われた。どの部屋にどのような展示をするか、明日館でロケハン。その後、近くの永田昌民さんのアトリエに場所を移して作業の分担を話し会った。
 私の宿題は、パネル製作用に先生の「かたちの科学」に関するキーワードを著作のなかから紡ぎだすこと。先生のテキストを読み返すと、今頃、新たに気がつく事柄が出てくる。書籍をつくる過程で、幾度となく読んでいるのに。
by komachi-memo2 | 2013-01-26 14:33 | EVENT | Comments(1)

二子山のアカゲラ

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一脚を肩にかついで冬鳥を探して林道を歩いた。前方に突然飛び出してくるアオジやクロジもいるからゆっくりと、視界の届かないところでは双眼鏡で遠くを確認しながら歩いていく。後ろからガヤガヤとハイカーの声が近づいて来る。ああ、だめだ。鳥がみんな逃げてしまう。彼らをやり過ごし、5分ほど間をおいてからまた歩き出す。今日は日曜日、しかもいつもより1時間ほど遅く家を出た。前も後ろもハイカーだらけ。先ほどから幾度となく、こんなことを繰り返しているうちに、林道の終点に来た。ハイカーの行き先を見定めて、いちばん人の少ない山道をさらに奥に行く。カケスが姿を現し、木を啄く音が前方から聞こえる。探すとアカゲラ。今冬は二子山山域でもアカゲラを目にすることができる。

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by komachi-memo2 | 2013-01-13 19:10 | Comments(2)

追悼・奥村昭雄先生

c0042548_12454363.jpg 今年もらった年賀状には「寂しくなりますね」といった添え書きが書かれているものがいくつかあった。昨年の12月27日早朝に、奥村昭雄先生がなくなった。いつかこの日がそう遠くない日に来ることを仲間は覚悟していたが、逝ってしまうと止めどもなく寂しい。
 中村橋に行くと、花に囲まれた先生の椅子の上に遺影が飾られているだけで、遺体は献体されていた。まことさんの話では、「コトンと逝った」という。大きなかけがいのない老木がついに倒れた。「数限りない友人に恵まれ、やりたいことを思い切りやり、次から次と、知っている歌を歌い、満足した旅立ちであったと思います」と、まことさんは言うが、もう先生の声を聞くことができない。
 先生とのおつきあいは、先生が赤いチャンチャンコの代わりに学生からもらったポケコンで、熱のシミュレーションを始めた80年代の新田体育館から始まる。
 この建物は、その後のOMソーラーの開発につながる記念すべき建築で、編集長をしていた「建築知識」で、テクニカル特集を組んだのが最初だったと思う。当時はバブルの頃で、建築の編集の根拠を疑い始めていた私にとって、「こういう考え方をする建築家がいるんだ」という驚きと救いの記事であった。
 その後、私は独立して、OMソーラーの草創期に立ち会い、「暖炉づくりハンドブック——その働きと詳細」、「パッシブデザインとOMソーラー」、「時が刻むかたち——樹木から集落まで」、「樹から生まれる家具——人を支え、人が触れるかたち」という4冊の先生の本を編集する機会を得た。どれもワクワクする楽しい仕事であった。
 先生の天才を一言でいうのは難しい。でも、あえて言えば、見えない自然の摂理をかたちにできた人だったと思う。建築だけでなく、家具からハムレー君のような道具に至るまで。先生は少年のような自然に対する好奇心とそれを分析する科学者の頭脳、それをかたちに昇華する芸術家の手を持った希有の建築家だった。そのことが先生を敬愛する多くの仲間を集めたのだと思う。
 先生の大きな功績として、OMソーラーや「そよ風」などに見られる空気集熱式のソーラーシステムの開発があげられる。これは今や日本のパッシブデザインを牽引するまでの勢力となっている。しかし、それ以前の先生の手がけた建築を見れば、例えば吉村順三設計事務所時代のNCRビルでは60年代初めに既にダブルスキンをやっている。ヨーロッパで環境指向型のファサードエンジニアリングとしてダブルスキンが注目される30年も前に、すでに先生はこの手法をNCRビルに取り入れていたのだ。
 このように先生の中に、建築を動的に捉える、静的な形だけでなく、環境との相互作用といった「生きている」建物の振る舞いを見るという考え方が、一貫してずいぶん初めからあったことがわかるのだが、いったいどこでそうしたものの見かたが先生のなかに形成されたのだろう。
 先生の忘れられない言葉のひとつに、「建築は凍れる音楽ではない」というのがある。
「建築を視覚的な世界として捉えたとき、「建築は凍れる音楽だ」「空間が呼応し合った、まるで止まっている音楽のようだ」という言い方をしますね。けれど実際の建築物は環境的に捉えれば、環境のリズムと人間生活のリズムに呼応して鳴っている楽器なんだと捉えることができるんです。建築はけっして凍れる音楽ではない。その方法としてパッシブデザインでは外界の変化に対して建築の応答系を調節することによって、中の鳴る音を調整しているのです。」(「クライマティックデザインとはどういう考え方か」)
 先生はこのようにパッシブデザインの本質を見ていた。それはエントロピーの原理に沿った考え方だった。たとえば、先生は次のように述べている。
 「人間は必ず体から少しずつ熱が奪われています。・・・・それを衣服によって調整したり、室温によって調節したりしています。けれど、基本的に少し奪われている状態がちょうどいいのです。そのため体温を一定に保てるのであって、それがなくなったら体温を一定に保てなくなります。では、熱が奪われているのは悪いことかというと、それは暖房にお金をかけて石油を燃やしているという観点から見て悪いことなのであって、家を暖めるために太陽の熱をとっても地球はなにも変わらないですね。だから、適当に家から熱は逃げてなければならないのです。それがあるから家をある範囲の温度に保つことが可能になるのです。・・・・経済の理屈に支配され過ぎてはいけない。すべて経済の理屈で価値観をもつ世界に立つと、効率は高ければ高いほどいいとか、ロスはできるだけ減らしたほうがいいとか、一方的な答えしかでないけれども、パッシブ的な考えに立つと、一方的な捉え方をできなくなる。」(「クライマティックデザインとはどういう考え方か」)
 先生は自然の変化のリズムを利用して、建物との応答の仕方を考えつづけた建築家だった。建築を自然が求めるリズムに近づける。人工的につくった環境ではなく、自然から引き出した心地よさを建築に求めた。先生が植物を研究したのも、晩年に潮流の研究をしたのもそのためだった。建築のためというより先生にとっては植物の研究も潮流の研究も、あるいは立体魔方陣の研究も建築の設計と同く、自然の見えない摂理を知ることであった。
 「植物は太陽と炭酸ガス、風と水、それにほんの少しのミネラルを土か海水から得ているだけである。彼らも建築と同じで、移動することができない。自然においては、与えられた環境と時間のくり返しが刻み出すかたちは、限りなく複雑であり、美しい。しかし、今、われわれがつくっている建築や都市が自然で美しいものとはとてもいえない。」(「時が刻むかたち」)
 いま、日本の状況は、先生がめざした自然に応答するものの見方や価値観とは真逆の方向へ危険な斜面を降りようとしている。だが、先生を敬愛した多くの仲間がいる。もう一度、われわれはパッシブデザインの本質に立ち返らなければならないと思う。
 先生、長いことお疲れ様でした。ありがとうございました。
(写真は北田英治撮影)
by komachi-memo2 | 2013-01-07 13:05 | Comments(2)

今期はカヤクグリの当たり年

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我がフィールドでは今シーズンはカヤクグリが何年ぶりかの当たり年である。3日に、息子の元が一人で大山林道を歩いて、すばらしいカヤクグリの写真を撮ってきた。なんでも4m近くまで寄れたという。そういうことって、たまにはあるよなと、今日は二人で、あまり期待をせずに、林道を歩いた。風もなく、人も少ない。3日に元が遭遇したところにさしかかると、カヤクグリが林道に現れた。ラッキー! 落葉を嘴でめくって小さな種子をさがして懸命に食べている。驚かせないように、一脚を最短にし、膝をついてシャッターを切る。その距離6メートルほど。

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今日のウソは遠かった。林道沿いのイノコヅチやウツギでは見ず、崖の上のほうの枝にとまっているのを撮影。
●いずれもE-M5、MMF-3、EC-14、nikon-4/3マウントアダプター、AF-S NIKKOR 300mm 1:4D、一脚を使用、MF。
by komachi-memo2 | 2013-01-06 18:48 | 探鳥 | Comments(0)

野沢富士子さんからのメール

 ベアテさんのことをエントリーしたら野沢富士子さんから長いメールをいただいた。野沢さんが友人たちに送った文章だ。まったく同感なので、彼女の許可をもらって、エントリーしておく。僕の返事も含めて。

「ベアテ・シロタ・ゴードンさん死去 2012年12月30日
すでにご存知かとは思いますが、ベアテさんは日本国憲法の草案作成にかかわり男女平等に関する条項を起案した女性です。89歳だったそうです。
 自民党政権が復権を果たした今、日本国憲法が脅かされるような雰囲気がうまれつつあり、私は深く憂慮せざるを得ません。安部政権は憲法は押し付けられたものと解釈しているようですが、幼少期を日本で過ごし日本の軍国主義や女性の地位の低さを身をもって体験した経験がベアテさんの男女平等の大切さを憲法に組み入れるという行為にいたったのだと思います。
 先日、偶然のようにベアテさんの父であるレオ・シロタを題材にしたドキュメンタリー映画を見る機会に恵まれました。題名は「シロタ家の20世紀」というもので、監督は2005年には「ベアテの贈り物」も世に送り出しているドキュメンタリー映画の藤原智子さんです。場所は私の連れ合い野沢が愛して止まない建築家吉村順三設計の園田高弘邸でした。
 レオ・シロタはロシア領であったウクライナの出身で、19世紀の末から始まったユダヤ人であるが故の迫害と第二次世界大戦のホロコーストから逃れようとキエフに移り住み、ピアニストとして全ヨーロッパで活躍しました。そして1929年から17年間日本においてピアニストの育成と演奏活動を行い、このため幼いベアテさんは日本での暮らしを経験することになったのです。
 その後ベアテさんはカリフォルニアのミルズ大学に入学のため渡米したものの両親は日本に残りましたが、1941年真珠湾攻撃によって親との連絡を断たれました。その頃には英語、日本語だけではなくフランス語、ドイツ語、ロシア語とスペイン語も流暢に話すだけの才能を身につけていたそうです。
 戦後ベアテさんは1945年1月にアメリカ市民権を得た後、両親を探すべくマッカーサーの部下の1人として日本に赴任する決心をし、日本にもどりました。マッカーサーの最初の仕事の一つが日本国憲法の作成でした。これは秘匿の任務であり、作業が始まったのが1946年の2月であり、わずか7日のうちにつくりあげるというものだったそうです。作業チーム20数名中ただ1人の女性としたこの重大の任務に参加したベアテさんは若輩の22歳で任されたのが日本女性の権利の部分でした。与えられたわずか7日間の短い時間でベアテは焼け残っていた図書館で多数の国の憲法を調べ尽くした末草案をかきあげたのでした。それは法の下の平等や婚姻における両性の平等につながる内容を起案したばかりではなく、GHQと日本側の交渉では通訳者としての努めもはたしたのです。
 今まさに日本国憲法の最も大切な9条が脅かされそうになってきました。ここ数年ベアテさんは日本を訪問するたびに9条の大切さをわれわれ日本人に説いてきました。彼女にとって平和条項9条と女性の権利を含む男女平等をうたう24条は彼女の愛する日本人への贈り物と私はとらえています。彼女はいつも 「日本の憲法はアメリカよりすばらしい」といいそのすばらしい憲法が日本人の日々の暮らしに根ざすことを願っていたと「天声人語」で述べています。
 9条を変えることなく自衛隊によるPKO国連による平和維持活動を可能にしたのが前小泉政権でした。なぜいま憲法改正が必要と安部首相が唱えるのか、私たちは深く深く考えることをしなければなりません。一端失われたものは福島の惨事をみても明らかなように二度と戻ってくることはないのです。
 電気は足りている、そして自然エネルギー転換までの道筋は容易ではありませんが、電気代が値上がりするといっても今の2倍という規模ではないのですから反原発をつらぬきましょう。そして純粋な22歳のベアテという名の女性が日本人のために草案した男女平等を生活のなかから実践し、戦争放棄というどの人間にとっても人間が人間らしく生きる権利を脅かす戦争をなくすための日本国憲法9条をまもりましょう。
 考えているだけでは意思表示できませんので、機会をみつけて立ち上がり行動をおこしていきたいと思う2013年の年明けでした。
 皆様にとって2013年が明るい希望にみちた年になることを心から願っています。そして私がまだ出会っていない人々にも平和と幸福を願います。
                                野沢富士子」

以下、僕の返信

「富士子さん
 今年もよろしくお願いします。あなたの手紙、まったくもって同感です。暮れから今年にかけて同じ事を考えていました。12月に埼玉県宮代町で富 田玲子さんたちと「シロタ家の20世紀」の上映会をし、同時に東欧の音楽会を開きました。
 今、民俗学者の宮本常一の全八巻からなる講演集の編集をしていますが、その中に「明日を信じて生きる」という講演があります。だれでもしあわせを求めるが、ほんとうにしあわせとは何かと、宮本は高校生に問います。そして、宮本はしあわせとは信じることのできる明日があることだと言います。しあわせを求めるならば信じることのできる明日をつくらなければならない。私もそう思 います。この講演のなかで、以下のような日本国憲法ができたときの逸話が述べられています。ちょっと長いのですが、引用します。
「わたしの恩人に渋沢敬三という人がおります。渋沢敬三はそのおじいさんが渋沢栄一という実業家で、その孫にあたる人です。ちょうど終戦の後の幣 原内閣のときに大蔵大臣をやっておられた。わたしはそこで居候をやっておったんです。居候を二三年ほどやったんです。渋沢先生から居候を二三年も やったのは日本にはおらんから、お前は日本一の居候だといわれたんです。
 その渋沢先生が大蔵大臣のときに、いまの憲法ができるわけなんです。いまでもよくおぼえていますが、先生が外から帰って来られて、「おい、今度で きる憲法はすばらしいもんだぞ。完全に軍備をもたないで戦争をしない。それを憲法のなかで謳うんだ」と。これは幣原(幣原喜重郎 一八七二〜一九五一年)さん、当時の総理大臣ですね、幣原さんの考えなんだと。むろん戦争をしないことを謳う、それはマッカーサー司令部より強くいわれて おったことですけれども、軍備までもたないということは幣原さんの考えなんだと。「まったくすばらしいことではないか」、こういうふうに先生がも どって来ていわれたんです。
 そのとき、わたしはびっくりしたんです。「そんなことってできるのですか。軍隊をもたない。また戦争をしないっていうことは可能なんですか」といいました。そのときに先生のいわれた言葉が、じつにわたしには考えさせられる言葉だったのです。
 「できるか、できないか、やってみることなのだ。いまからできないと考えることのほうがまちがっているんだ。どんなに苦しくとも、それをやってみ ることなんだ。そして、そこに新しい道を見出していくことだ。それがあの大きな戦争を引き起こした者の責任ではないだろうか」と。こういうことをいわれたんです。非常にすぐれた言葉であったと思うのです。」(「明日を信じて生きる」より引用)

 私は日本国憲法は廃墟の青い空の下で歌われた「イマジン」だったと思うのです。日本国憲法のなかには、軍備をもたないこと、かつ男女平等が書かれています。ここでの男女平等は、イラクでイラク人を侮辱するアメリカの女兵士のように、女が男になることではないと、私は思うのです。上野千鶴子のいうフェミニズムに近い思想ではないかと思うのです。ベアテさんの願ったこともそうであったと思います。
by komachi-memo2 | 2013-01-04 12:12 | Comments(0)

ゴードンさんの死

3日の朝日新聞朝刊に、「憲法草案に男女平等条項 ゴードンさん死去」の見出しで、ベアテ・シロタ・ゴードンさんがニューヨークの自宅で死去したことを伝えていた。享年89年。昨年暮れに宮代町の進修館で、建築家の富田玲子さんたちと「シロタ家の20世紀」を鑑賞する会をやったばかりだった。ゴードンさんの最後の言葉は「日本国憲法の平和条項と女性の権利を守ってほしい」という趣旨だったという。藤原智子監督のこの映画をもっと多くの人に見てもらいたいと思う。
by komachi-memo2 | 2013-01-03 22:22 | Comments(0)

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。
カレンダーを変えるように、「komachi-memo2」のスキンを一新しました。
トップ画像は三浦海岸のミユビシギです。ずいぶん以前に撮ったものですが、かわいくて気に入っている写真です。
昨年のエントリーは週一ペースにもなりませんでしたが、今年はどうなることやら。
今年もおつきあいのほどよろしくお願いします。
by komachi-memo2 | 2013-01-03 12:45 | Comments(0)