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LEICA DG MACRO-ELMARIT 2.8/45初撮り

ガクアジサイ02

ヤフオクで手に入れたLEICA DG MACRO-ELMARIT 2.8/45の初撮りです。このパナライカ、出品者が送ってきた中古レンズが動作不良で送り返したところ、代わりに送ってくれた新品のレンズです。こんなこともあるんですね、ラッキー。今日はどんより暗い雨の日でしたが、5軸手ぶれ防止のE-M5とF2.8の明るいレンズで、歩留まりよく撮れます。しばらくE-M5で、ZD50mm/macroと撮り比べをしてみたいと思っています。

ガクアジサイ01

クモの巣

しろやまぶき?
by komachi-memo2 | 2012-06-16 18:12 | 道具 | Comments(2)

梅雨の合間の虫たち

今日は夏のような陽気だった。昨日の雨の日にはドクダミの独り舞台だった日陰の空き地に、今日はトキワツユクサが白い花を開いている。
トキワツユクサ

大きく伸びたカラムシの葉には今、ラミーカミキリがあちらにもこちらにも付いている。
ラミーカミキリ

足下のセイヨウタンポポの葉を這い上がっているのは美しいホシベニカミキリ。
ホシベニカミキリ02
by komachi-memo2 | 2012-06-10 22:25 | 探虫 | Comments(1)

E-M5始動

オリンパスE-M5を先週、ようやく手に入れた。もっと早く手に入れる予定だったが、韓国旅行には間に合わず、季節は梅雨入り。遠出もできず、小降りの一時、庭先でのスナップがE-M5の最初のエントリーになった。レンズはZD50mmマクロ。現在、最も多用しているレンズ。このカミソリのような切れ味のフォーサーズの名玉、E-M5に装着するとお辞儀をして少々大きいのだが、パワーバッテリーホルダーHLD-6を装着すると、とても手になじむ。E-M5のボディは右手のグリップが浅い上に、右手で操作するボタンが微妙な位置に集中していて、ボタンの使い勝手が決して良くはない。E-M5のボディにフォーサーズレンズを流用する者にとってパワーバッテリーホルダーは必須のアイテムだ。E-M5のボタンのカスタマイズはまだ試行錯誤中だが、現在はfn1にMF切替、fn2に拡大表示、動画を撮らないのでRECにISO感度を設定している。

rainy season01

rainy season03

rainy season02

rainy season04
by komachi-memo2 | 2012-06-09 12:35 | 道具 | Comments(2)

癸酉のポートレート——韓国の旅3

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 27日、大邱。ミセス・キムの友人である芸術家夫婦のアトリエを訪問した後、KTXでソウルに戻る。夕方、ミセス・キムとソウルのダウンタウンにある泰善さんの家を訪ねる。周囲には韓国の伝統的な韓屋がまだかなり残っている。泰善さんは来年80歳になるが、とてもお元気で、祖父の出版社を引き継ぎ、会長職を現役で続けている。日本語を解するが、私のニュアンスは伝わらず、会話はいつも斜め斜めにずれていく。
 8.15の解放後に続く朝鮮戦争で大邱に逃げ、祖父を助け、辛酸を嘗めた思い出を何度も話す。菊池章子や美空ひばり、日本の演歌をこよなく愛する苦労人だ。
 泰善さんの家に亡父が描いた祖父金声培さんのポートレートが残されていた。口ひげとあごひげを生やしたやせた老人がチョゴリに韓式の帽子を被った正装をしている。ポートレートの脇に「癸酉8月13日 小子鍾氵南謹写」と書かれている。私の手許に残された祖父の漢詩「送鍾氵南内地遊学」の年号も同年の7月13日である。
 「癸酉」は1933年、亡父19歳の時に描いたものだ。亡父が上京し、早稲田や池袋に住むようになるのは翌年の1934年である。内地に来る前年、祖父は亡父に漢詩を送り、亡父は祖父の肖像画を記念に描いた。日本が朝鮮に創氏改名を強制するのは39年からだ。だから日本支配下にあるとはいえ、まだ亡父の名は「鍾氵南」のままだ。しかし、この年1月、ヨーロッパではヒットラーがドイツ首相になり、日本では2月、小林多喜二が治安維持法で逮捕、獄死、3月には国際連盟を脱退している。軍靴の足音は朝鮮半島でも聞こえていたはずだ。この年、亡父は遊学を前にどんな思いでいたのだろうか。数年遅れていたら時代は内地遊学を亡父に許さず、私が生まれていなかったことだけは確かだ。
by komachi-memo2 | 2012-06-01 16:27 | 国立の記憶 | Comments(4)

祖父の墓——韓国の旅2

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 26日、祖父の墓を墓参する。いつか祖父の墓を墓参してみたいものだと、日本で長いこと私は夢想していた。しかし、病気の母のこともあり、胸の奥にずっとひそかに仕舞っておいた夢だった。昨年、母が亡くなり、その後、偶然にも泰善さんやミセス・キムが日本にいる私を熱心に捜していることを郡山から二人の女性が私を訪ねて伝えてくれた。彼らに背中を押されるようにして、この墓参は実現したのだった。
 泰洪さんは朝から市場に行き、墓参にもっていく果物や酒などを準備してくれる。墓はタクシーで小一時間ほどの山のほとりにあった。草や松の小枝を手がかりに足をすべらさないように登っていくと、それとわかる土まんじゅうの形が草藪のなかにあった。韓国の従兄弟たちはゴールデンウィークにも来て、周囲の草刈りをしているのだが、夏草の勢いは激しく、すでに墓を覆っていた。かつては薪炭のために裸同然だった山は、今はどこもうっそうとしている。
 私は日本から亡父の写真を持ってきていた。それを取り出し、傍に置く。膝を折り、両手と頭を草土につける。ヨウヤクヤッテクルコトガデキマシタ。チチノオヤフコウヲオユルシクダサイ。
 眼鏡が濡れ、夏草が臭う。気持ちの良い風とカササギの鳴き声だけが聞こえてきた。
by komachi-memo2 | 2012-06-01 15:09 | 国立の記憶 | Comments(0)

ピンクの帽子——韓国の旅1

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↑普州は亡父の故郷

 5月25日から29日の間、韓国はソウル、ジンジュ、サンチョン、テグを訪ねた。亡父の故郷、私のルーツを訪ねる旅である。
 金浦空港では私の名前を書いたプラカードを持って、ピンクの帽子をかぶったミセス・キムが私を出迎えてくれた。ミセス・キムは亡父の兄の3番目の子、私の従兄弟にあたる。間違えて仁川空港に行ってしまったミセス・キムの兄泰善さんと落ち合って、空港にほど近い社寺建築を模したレストランに移動。そこでアメリカから戻った二男の泰洪さんと会う。泰洪さんはどこか亡父と顔立ちが似ている。亡父が死ぬまで日記の間に挟んで捨てなかった祖父金声培から日本に来るときに送られた漢詩のコピーを私はソウルに来る前に彼らに送っていたが、彼らはハングルに訳して私に見せてくれた。私は漢詩の意味がよくわかると伝える。漢詩から伝わる祖父の亡父へ思いは、彼らにも涙ものなのだ。
 18時50分発の国内線で、亡父の故郷である普州(ジンジュ)に移動する。ミセス・キムもいっしょかと思っていたら彼女は同乗しなかった。韓国ではいまだに先祖祭祀を行うのは男子の子孫に限られていることに気付いた。
 普州は父が育ったところだ。夜、泰善さんから亡父は家から南江のほとりにあった農業学校に通っていたという話を聞かされる。日本が朝鮮を統治していた時代、生徒は日本人と朝鮮人が半々で、亡父はその学校の2回生だったという。農業指導者を育成する学校だったようだ。亡父の心にいつ日本に行って、絵を学びたいという気持ちが起きたのだろうか。泰善さんや泰洪さんの話の中に、彼らの父である鍾湜さんが祖父に代わって、弟にあたる私の亡父を金銭的に援助していたことが何度か出てきた。私は黙って頷くしかない。
by komachi-memo2 | 2012-06-01 13:44 | 国立の記憶 | Comments(0)