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カテゴリ:国立の記憶( 16 )

癸酉のポートレート——韓国の旅3

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 27日、大邱。ミセス・キムの友人である芸術家夫婦のアトリエを訪問した後、KTXでソウルに戻る。夕方、ミセス・キムとソウルのダウンタウンにある泰善さんの家を訪ねる。周囲には韓国の伝統的な韓屋がまだかなり残っている。泰善さんは来年80歳になるが、とてもお元気で、祖父の出版社を引き継ぎ、会長職を現役で続けている。日本語を解するが、私のニュアンスは伝わらず、会話はいつも斜め斜めにずれていく。
 8.15の解放後に続く朝鮮戦争で大邱に逃げ、祖父を助け、辛酸を嘗めた思い出を何度も話す。菊池章子や美空ひばり、日本の演歌をこよなく愛する苦労人だ。
 泰善さんの家に亡父が描いた祖父金声培さんのポートレートが残されていた。口ひげとあごひげを生やしたやせた老人がチョゴリに韓式の帽子を被った正装をしている。ポートレートの脇に「癸酉8月13日 小子鍾氵南謹写」と書かれている。私の手許に残された祖父の漢詩「送鍾氵南内地遊学」の年号も同年の7月13日である。
 「癸酉」は1933年、亡父19歳の時に描いたものだ。亡父が上京し、早稲田や池袋に住むようになるのは翌年の1934年である。内地に来る前年、祖父は亡父に漢詩を送り、亡父は祖父の肖像画を記念に描いた。日本が朝鮮に創氏改名を強制するのは39年からだ。だから日本支配下にあるとはいえ、まだ亡父の名は「鍾氵南」のままだ。しかし、この年1月、ヨーロッパではヒットラーがドイツ首相になり、日本では2月、小林多喜二が治安維持法で逮捕、獄死、3月には国際連盟を脱退している。軍靴の足音は朝鮮半島でも聞こえていたはずだ。この年、亡父は遊学を前にどんな思いでいたのだろうか。数年遅れていたら時代は内地遊学を亡父に許さず、私が生まれていなかったことだけは確かだ。
by komachi-memo2 | 2012-06-01 16:27 | 国立の記憶 | Comments(4)

祖父の墓——韓国の旅2

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 26日、祖父の墓を墓参する。いつか祖父の墓を墓参してみたいものだと、日本で長いこと私は夢想していた。しかし、病気の母のこともあり、胸の奥にずっとひそかに仕舞っておいた夢だった。昨年、母が亡くなり、その後、偶然にも泰善さんやミセス・キムが日本にいる私を熱心に捜していることを郡山から二人の女性が私を訪ねて伝えてくれた。彼らに背中を押されるようにして、この墓参は実現したのだった。
 泰洪さんは朝から市場に行き、墓参にもっていく果物や酒などを準備してくれる。墓はタクシーで小一時間ほどの山のほとりにあった。草や松の小枝を手がかりに足をすべらさないように登っていくと、それとわかる土まんじゅうの形が草藪のなかにあった。韓国の従兄弟たちはゴールデンウィークにも来て、周囲の草刈りをしているのだが、夏草の勢いは激しく、すでに墓を覆っていた。かつては薪炭のために裸同然だった山は、今はどこもうっそうとしている。
 私は日本から亡父の写真を持ってきていた。それを取り出し、傍に置く。膝を折り、両手と頭を草土につける。ヨウヤクヤッテクルコトガデキマシタ。チチノオヤフコウヲオユルシクダサイ。
 眼鏡が濡れ、夏草が臭う。気持ちの良い風とカササギの鳴き声だけが聞こえてきた。
by komachi-memo2 | 2012-06-01 15:09 | 国立の記憶 | Comments(0)

ピンクの帽子——韓国の旅1

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↑普州は亡父の故郷

 5月25日から29日の間、韓国はソウル、ジンジュ、サンチョン、テグを訪ねた。亡父の故郷、私のルーツを訪ねる旅である。
 金浦空港では私の名前を書いたプラカードを持って、ピンクの帽子をかぶったミセス・キムが私を出迎えてくれた。ミセス・キムは亡父の兄の3番目の子、私の従兄弟にあたる。間違えて仁川空港に行ってしまったミセス・キムの兄泰善さんと落ち合って、空港にほど近い社寺建築を模したレストランに移動。そこでアメリカから戻った二男の泰洪さんと会う。泰洪さんはどこか亡父と顔立ちが似ている。亡父が死ぬまで日記の間に挟んで捨てなかった祖父金声培から日本に来るときに送られた漢詩のコピーを私はソウルに来る前に彼らに送っていたが、彼らはハングルに訳して私に見せてくれた。私は漢詩の意味がよくわかると伝える。漢詩から伝わる祖父の亡父へ思いは、彼らにも涙ものなのだ。
 18時50分発の国内線で、亡父の故郷である普州(ジンジュ)に移動する。ミセス・キムもいっしょかと思っていたら彼女は同乗しなかった。韓国ではいまだに先祖祭祀を行うのは男子の子孫に限られていることに気付いた。
 普州は父が育ったところだ。夜、泰善さんから亡父は家から南江のほとりにあった農業学校に通っていたという話を聞かされる。日本が朝鮮を統治していた時代、生徒は日本人と朝鮮人が半々で、亡父はその学校の2回生だったという。農業指導者を育成する学校だったようだ。亡父の心にいつ日本に行って、絵を学びたいという気持ちが起きたのだろうか。泰善さんや泰洪さんの話の中に、彼らの父である鍾湜さんが祖父に代わって、弟にあたる私の亡父を金銭的に援助していたことが何度か出てきた。私は黙って頷くしかない。
by komachi-memo2 | 2012-06-01 13:44 | 国立の記憶 | Comments(0)

ソウルへの手紙

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 先日、霙まじりの寒い週末、郡山から二人の女性が私を訪ねてくれた。PさんとKさん。Pさんは韓国の友人から日本にいる亡父の血族の消息を調べてほしいと頼まれた。Pさんは亡母が住む国立の家に何度も電話するが、その先に進むことができなかったという。2009年に板橋区立美術館で開かれた「日本のシュールレアリズム」展に来れば、私に会えるかもしれないと学芸員に教えられたが、それも頓挫したという。Pさんの友人Kさんには、私と同じくシュールレアリズムの画家の父がいた。Pさんから消息の相談を受けたKさんは、私のBLOGを見つけた。そして、正月に私に長いメールをくれた。
 これと似たことが昨年の夏にもあった。BLOG aki's stocktakingでakiさんがエントリーした亡父の「水辺」の絵に、やはり韓国から私の消息を依頼されたTさんが行き着き、韓国からのメッセージを知らせてくれたのだ。当時、母は病んでいた。若い頃から心の奥に隠してきた怯えが、幻聴のかたちで吹き出していた。その怯えの核心は亡父の血族に関するものだった。母の状況を考えると、とても韓国からのメッセージに応答することはできなかった。
 母は昨年秋に亡くなった。もう私に柵はない。Pさんから教えられたソウルに住む従兄弟に初めて手紙を書いた。古い父のポートレイトや絵のコピーといっしょに。韓国には何度も旅行をしてきたが、亡父の故郷としての韓国は、これまで私にとってとても遠いところであった。その血族の暮らす韓国に、今年は行こうとしている。

●写真は青木ヶ原で遊ぶ20代の父
by komachi-memo2 | 2012-01-27 18:11 | 国立の記憶 | Comments(1)

Flickr「真鍋英雄遺作集」

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2年以上使っていたAUの携帯を捨てて、最近iPhoneを使うようになりました。iPhoneを使うようになって、これまで溜まり放しにしてきたデジカメデータの整理の仕方を最終的にFlickrに保存することを考えています。とりあえず公開できるものとして亡父が国立の実家に残した遺作をアップロードします。昨年11月に区立板橋美術館で開催された「福沢一郎絵画研究所展」では亡父真鍋英雄の作品も4点ほど展示する機会を得ましたが、その機会に自宅で私が撮影したものです。亡父はほとんど無名の画家だったので、作品集がありません。多くの絵が誰の目にも触れないまま眠っています。私のBLOGを見てくれている方、友人の方に見ていただければ幸いです。FLickr
by komachi-memo2 | 2011-03-25 13:33 | 国立の記憶 | Comments(0)

半世紀前の国立

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母の介護に国立の実家に通う道筋は、大学通りから一橋大の構内を抜け、国立学園の前に出る。高校までほとんど国立で過ごしたが、昔もよく歩いた道だ。国立学園の前の通りで撮った古い写真がアルバムに残っていた。左側は大学の構内で、右側には低木が茂る空き地が続いていた。季節は秋だろうか、早春だろうか。乾いた道路はローラーで押し固めただけの未舗装で、車の往来はわずか。母はカーディガンの袖をまくり、下駄を履いている。私は4歳。母と手をつなぎ、足を揃えて、どこか嬉しそうに写っている。昔は誰もみなガキだった。
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↑現在の風景
by komachi-memo2 | 2011-02-06 17:19 | 国立の記憶 | Comments(3)

残された絵

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↑隠者の誘惑(1978、F100)
 正月2日は国立の実家に行って、一泊するのがここ数年の恒例になっている。父が死んでからずっと一人で家を守っている母一人が住む家には、ゆっくり時間が流れている。私の暮らした部屋の本箱も弟の部屋のベッドも数十年手つかずのまま残されている。亡父のアトリエも昔のままで、今年の帰省では亡父の残した油絵を写真に納めようと思った。
 残されたF20からF100の大作まで30数枚を半日かけて撮影した。どの作品も状態は良く、どれも初めて見るような新鮮さがあった。絵筆を使わず、ペイントナイフだけで描いていた時期の作品は私が幼稚園の頃で、ダルマストーブにあたりながら描いていたことを思い出した。もう残存しないだろうと思っていた戦前の作品も数点見つかった。池袋モンパルナスで空襲に遭い、かろうじて残されたものだ。亡父はグリーンを基調によく使った。それもカドニウムグリーン。昔、「もうこの絵の具は手に入らないんだ」と言っていたことを思い出した。
 一枚一枚と対面しながら年号を確認しながらシャッターを押していく。そしてその年号の時代に、私がいくつで何をしていたのかを考えた。亡父の絵によく登場する戦闘機の残骸。かつて亡父と同じ時代を生きたが、私たちの中に流れていた時間は決して同じではなかった。そんな当たり前のことを確認した一日だった。
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↑枯花の幻想(1981、F80)
by komachi-memo2 | 2010-01-05 18:29 | 国立の記憶 | Comments(5)

一枚の写真——福沢一郎絵画研究所

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 BLOGにに22年前に亡くなった父のことを何度か書いた。朝鮮から単身勉学のために日本に来たこと、その後画家になることを決意したこと、池袋モンパルナスの住民になったこと、そこで麻生三郎らの良き友を得たこと、戦後、一時韓国に引き戻されるが、日本に戻って真鍋家の養子となり、日本に帰化したこと、自分の味わった悲哀を子供たちに味合わせないために、自分の過去のほとんどを語らなかったことなどである。戦前から父を知る数少ない人たちの思い出に宿る父は、とても面白い快活な人だったようである。バイオリンを弾き、水泳が得意だった。しかし、その明るさの裏には強い絆で結ばれた朝鮮の血族を断ってきた忘れることのできない亡父の内面があったことを今思うのである。「お父さんは年寄りにとっても優しかったよ。あれはね、自分の親不幸があったからなんだよ」84歳になる母はそんなことを言う。
 先日、板橋区立美術館のHさんが国立の実家にいらっしゃった。来年11月に行われる企画展「福沢一郎絵画研究所と仲間たち」(仮称)の取材のためである。福沢一郎は日本にシュルレアリスムを広めた画家として知られるが、当時若い画家たちに大きな影響を及ぼした。亡父もその一人だった。福沢が自宅のアトリエに絵画研究所を開設したのは1936年、研究所の活動は彼が治安維持法で逮捕されるまでのわずか5年間である。亡父は研究所の最も早い研究生だった。福沢一郎を終生師と仰ぎ、死ぬまで交流があった。しかし、研究所当時のことを父は語らなかったし、今となっては知る人はほとんどいない。Hさんは今も健在な父の友人、知人たちに丹念に取材を続けて、私の知らない父のことも知っていた。
 当時の写真がわずか数枚古いアルバムに残されている。それをHさんに見てもらった。一枚の写真には福沢一郎絵画研究所夏期講習会、1937年と裏書きがある。亡父22歳の時の写真である。一番前の黒っぽいジャケットにネクタイが亡父、その右後のメガネにネクタイが福沢一郎である。後列右から二番目に瀧口修造の姿も見える。亡父のポテンシャルがいちばんあった頃かも知れない。1937年は蘆溝橋事件のあった年だ。日中が全面戦争に突入し、「千人針」が流行し、巷に「ここはお国の何百里」の歌が流れていた。彼の祖国では朝鮮総督府が朝鮮語を禁止、君が代斉唱が強制され、1939年には創氏改名が公布される。当時の亡父の心中はどんなだったのだろう。年末に、亡父の絵画を整理して、データに収録しておきたいと思う。
by komachi-memo2 | 2009-11-26 10:59 | 国立の記憶 | Comments(1)

久しぶりの「水辺」再会

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ずいぶん前にエントリーした「東長崎そぞろ歩き」(2006.4.14)に、イノウエさんから最近、コメントをもらった。板橋区立美術館で開催中の「池袋モンパルナスの作家たち」展で亡父の絵を見てくれた感想だった。うれしかった。うっかり忘れていた展覧会を思い出し、西高島平まで足を延ばした。丁寧な企画の展覧会だった。池袋モンパルナスで暮らした画家たちの今わかる限りのプロフィールが絵の横に簡単に紹介されていた。戦前の唯一現存する亡父の絵「水辺」を久しぶりに見た。プロフィールを見ると、「東京生まれ」とある。これは誤りだ。亡父が故意にそうしたのだろうか。しばらく逡巡してから学芸員を訪ねた。東京生まれが誤りであること、朝鮮人であったこと、正しい略歴を送ることを約束した。しばらく前に鎌倉で松本俊介と麻生三郎の展覧会をやった時と同じ写真が掲載されていた。寺田政明、麻生三郎ら5人がアトリエの前で写っている。右端のいっちょうらいの背広姿で手にタバコを挟んでいる天然パーマは亡父だ。鎌倉と同様にキャプションでただ一人名前の不明なのが亡父であった。そのことも学芸員に伝えた。若い学芸員はうれしそうだった。「マナベ先生の情報は拾えなくて……」。学芸員の言葉が耳に残った。
by komachi-memo2 | 2007-03-20 23:31 | 国立の記憶 | Comments(3)

観梅と墓参り

c0042548_9271075.jpg父の墓は青梅線・御嶽の慈恩寺にある。多摩川の渓谷を見下ろす場所で高水三山の登山口になっているところだ。日曜日に一人で久しぶりに青梅線に揺られてぶらり墓参りに行った。青梅線の沿線には小さいときの思い出がつまっている。親戚の多くが疎開先だった青梅線の沿線でそのまま戦後を暮らしていたからだった。祖父母の家は宮ノ平の高台にあった。当時の宮ノ平の駅は石灰で真っ白で、生石灰を積む貨車が駅の構内にたくさん止まっていた。今も駅前に城跡のように窯の遺構が残っている。氷川の吊り橋を渡ったところでは父方の親戚が山小屋を経営していた。御嶽には母の姉家族が住んでいて、夏休みになると一月近くその家に行って川で遊んだ。強い雨も昼には青空に変わり、青梅線が軍畑辺りにかかると車窓は満開の梅でいっぱいになった。梅の花が好きな人だった。いい時に墓参りができたと思った。
by komachi-memo2 | 2007-03-13 09:30 | 国立の記憶 | Comments(0)