2013年 01月 07日
追悼・奥村昭雄先生
今年もらった年賀状には「寂しくなりますね」といった添え書きが書かれているものがいくつかあった。昨年の12月27日早朝に、奥村昭雄先生がなくなった。いつかこの日がそう遠くない日に来ることを仲間は覚悟していたが、逝ってしまうと止めどもなく寂しい。
中村橋に行くと、花に囲まれた先生の椅子の上に遺影が飾られているだけで、遺体は献体されていた。まことさんの話では、「コトンと逝った」という。大きなかけがいのない老木がついに倒れた。「数限りない友人に恵まれ、やりたいことを思い切りやり、次から次と、知っている歌を歌い、満足した旅立ちであったと思います」と、まことさんは言うが、もう先生の声を聞くことができない。
先生とのおつきあいは、先生が赤いチャンチャンコの代わりに学生からもらったポケコンで、熱のシミュレーションを始めた80年代の新田体育館から始まる。
この建物は、その後のOMソーラーの開発につながる記念すべき建築で、編集長をしていた「建築知識」で、テクニカル特集を組んだのが最初だったと思う。当時はバブルの頃で、建築の編集の根拠を疑い始めていた私にとって、「こういう考え方をする建築家がいるんだ」という驚きと救いの記事であった。
その後、私は独立して、OMソーラーの草創期に立ち会い、「暖炉づくりハンドブック——その働きと詳細」、「パッシブデザインとOMソーラー」、「時が刻むかたち——樹木から集落まで」、「樹から生まれる家具——人を支え、人が触れるかたち」という4冊の先生の本を編集する機会を得た。どれもワクワクする楽しい仕事であった。
先生の天才を一言でいうのは難しい。でも、あえて言えば、見えない自然の摂理をかたちにできた人だったと思う。建築だけでなく、家具からハムレー君のような道具に至るまで。先生は少年のような自然に対する好奇心とそれを分析する科学者の頭脳、それをかたちに昇華する芸術家の手を持った希有の建築家だった。そのことが先生を敬愛する多くの仲間を集めたのだと思う。
先生の大きな功績として、OMソーラーや「そよ風」などに見られる空気集熱式のソーラーシステムの開発があげられる。これは今や日本のパッシブデザインを牽引するまでの勢力となっている。しかし、それ以前の先生の手がけた建築を見れば、例えば吉村順三設計事務所時代のNCRビルでは60年代初めに既にダブルスキンをやっている。ヨーロッパで環境指向型のファサードエンジニアリングとしてダブルスキンが注目される30年も前に、すでに先生はこの手法をNCRビルに取り入れていたのだ。
このように先生の中に、建築を動的に捉える、静的な形だけでなく、環境との相互作用といった「生きている」建物の振る舞いを見るという考え方が、一貫してずいぶん初めからあったことがわかるのだが、いったいどこでそうしたものの見かたが先生のなかに形成されたのだろう。
先生の忘れられない言葉のひとつに、「建築は凍れる音楽ではない」というのがある。
「建築を視覚的な世界として捉えたとき、「建築は凍れる音楽だ」「空間が呼応し合った、まるで止まっている音楽のようだ」という言い方をしますね。けれど実際の建築物は環境的に捉えれば、環境のリズムと人間生活のリズムに呼応して鳴っている楽器なんだと捉えることができるんです。建築はけっして凍れる音楽ではない。その方法としてパッシブデザインでは外界の変化に対して建築の応答系を調節することによって、中の鳴る音を調整しているのです。」(「クライマティックデザインとはどういう考え方か」)
先生はこのようにパッシブデザインの本質を見ていた。それはエントロピーの原理に沿った考え方だった。たとえば、先生は次のように述べている。
「人間は必ず体から少しずつ熱が奪われています。・・・・それを衣服によって調整したり、室温によって調節したりしています。けれど、基本的に少し奪われている状態がちょうどいいのです。そのため体温を一定に保てるのであって、それがなくなったら体温を一定に保てなくなります。では、熱が奪われているのは悪いことかというと、それは暖房にお金をかけて石油を燃やしているという観点から見て悪いことなのであって、家を暖めるために太陽の熱をとっても地球はなにも変わらないですね。だから、適当に家から熱は逃げてなければならないのです。それがあるから家をある範囲の温度に保つことが可能になるのです。・・・・経済の理屈に支配され過ぎてはいけない。すべて経済の理屈で価値観をもつ世界に立つと、効率は高ければ高いほどいいとか、ロスはできるだけ減らしたほうがいいとか、一方的な答えしかでないけれども、パッシブ的な考えに立つと、一方的な捉え方をできなくなる。」(「クライマティックデザインとはどういう考え方か」)
先生は自然の変化のリズムを利用して、建物との応答の仕方を考えつづけた建築家だった。建築を自然が求めるリズムに近づける。人工的につくった環境ではなく、自然から引き出した心地よさを建築に求めた。先生が植物を研究したのも、晩年に潮流の研究をしたのもそのためだった。建築のためというより先生にとっては植物の研究も潮流の研究も、あるいは立体魔方陣の研究も建築の設計と同く、自然の見えない摂理を知ることであった。
「植物は太陽と炭酸ガス、風と水、それにほんの少しのミネラルを土か海水から得ているだけである。彼らも建築と同じで、移動することができない。自然においては、与えられた環境と時間のくり返しが刻み出すかたちは、限りなく複雑であり、美しい。しかし、今、われわれがつくっている建築や都市が自然で美しいものとはとてもいえない。」(「時が刻むかたち」)
いま、日本の状況は、先生がめざした自然に応答するものの見方や価値観とは真逆の方向へ危険な斜面を降りようとしている。だが、先生を敬愛した多くの仲間がいる。もう一度、われわれはパッシブデザインの本質に立ち返らなければならないと思う。
先生、長いことお疲れ様でした。ありがとうございました。
(写真は北田英治撮影)
中村橋に行くと、花に囲まれた先生の椅子の上に遺影が飾られているだけで、遺体は献体されていた。まことさんの話では、「コトンと逝った」という。大きなかけがいのない老木がついに倒れた。「数限りない友人に恵まれ、やりたいことを思い切りやり、次から次と、知っている歌を歌い、満足した旅立ちであったと思います」と、まことさんは言うが、もう先生の声を聞くことができない。
先生とのおつきあいは、先生が赤いチャンチャンコの代わりに学生からもらったポケコンで、熱のシミュレーションを始めた80年代の新田体育館から始まる。
この建物は、その後のOMソーラーの開発につながる記念すべき建築で、編集長をしていた「建築知識」で、テクニカル特集を組んだのが最初だったと思う。当時はバブルの頃で、建築の編集の根拠を疑い始めていた私にとって、「こういう考え方をする建築家がいるんだ」という驚きと救いの記事であった。
その後、私は独立して、OMソーラーの草創期に立ち会い、「暖炉づくりハンドブック——その働きと詳細」、「パッシブデザインとOMソーラー」、「時が刻むかたち——樹木から集落まで」、「樹から生まれる家具——人を支え、人が触れるかたち」という4冊の先生の本を編集する機会を得た。どれもワクワクする楽しい仕事であった。
先生の天才を一言でいうのは難しい。でも、あえて言えば、見えない自然の摂理をかたちにできた人だったと思う。建築だけでなく、家具からハムレー君のような道具に至るまで。先生は少年のような自然に対する好奇心とそれを分析する科学者の頭脳、それをかたちに昇華する芸術家の手を持った希有の建築家だった。そのことが先生を敬愛する多くの仲間を集めたのだと思う。
先生の大きな功績として、OMソーラーや「そよ風」などに見られる空気集熱式のソーラーシステムの開発があげられる。これは今や日本のパッシブデザインを牽引するまでの勢力となっている。しかし、それ以前の先生の手がけた建築を見れば、例えば吉村順三設計事務所時代のNCRビルでは60年代初めに既にダブルスキンをやっている。ヨーロッパで環境指向型のファサードエンジニアリングとしてダブルスキンが注目される30年も前に、すでに先生はこの手法をNCRビルに取り入れていたのだ。
このように先生の中に、建築を動的に捉える、静的な形だけでなく、環境との相互作用といった「生きている」建物の振る舞いを見るという考え方が、一貫してずいぶん初めからあったことがわかるのだが、いったいどこでそうしたものの見かたが先生のなかに形成されたのだろう。
先生の忘れられない言葉のひとつに、「建築は凍れる音楽ではない」というのがある。
「建築を視覚的な世界として捉えたとき、「建築は凍れる音楽だ」「空間が呼応し合った、まるで止まっている音楽のようだ」という言い方をしますね。けれど実際の建築物は環境的に捉えれば、環境のリズムと人間生活のリズムに呼応して鳴っている楽器なんだと捉えることができるんです。建築はけっして凍れる音楽ではない。その方法としてパッシブデザインでは外界の変化に対して建築の応答系を調節することによって、中の鳴る音を調整しているのです。」(「クライマティックデザインとはどういう考え方か」)
先生はこのようにパッシブデザインの本質を見ていた。それはエントロピーの原理に沿った考え方だった。たとえば、先生は次のように述べている。
「人間は必ず体から少しずつ熱が奪われています。・・・・それを衣服によって調整したり、室温によって調節したりしています。けれど、基本的に少し奪われている状態がちょうどいいのです。そのため体温を一定に保てるのであって、それがなくなったら体温を一定に保てなくなります。では、熱が奪われているのは悪いことかというと、それは暖房にお金をかけて石油を燃やしているという観点から見て悪いことなのであって、家を暖めるために太陽の熱をとっても地球はなにも変わらないですね。だから、適当に家から熱は逃げてなければならないのです。それがあるから家をある範囲の温度に保つことが可能になるのです。・・・・経済の理屈に支配され過ぎてはいけない。すべて経済の理屈で価値観をもつ世界に立つと、効率は高ければ高いほどいいとか、ロスはできるだけ減らしたほうがいいとか、一方的な答えしかでないけれども、パッシブ的な考えに立つと、一方的な捉え方をできなくなる。」(「クライマティックデザインとはどういう考え方か」)
先生は自然の変化のリズムを利用して、建物との応答の仕方を考えつづけた建築家だった。建築を自然が求めるリズムに近づける。人工的につくった環境ではなく、自然から引き出した心地よさを建築に求めた。先生が植物を研究したのも、晩年に潮流の研究をしたのもそのためだった。建築のためというより先生にとっては植物の研究も潮流の研究も、あるいは立体魔方陣の研究も建築の設計と同く、自然の見えない摂理を知ることであった。
「植物は太陽と炭酸ガス、風と水、それにほんの少しのミネラルを土か海水から得ているだけである。彼らも建築と同じで、移動することができない。自然においては、与えられた環境と時間のくり返しが刻み出すかたちは、限りなく複雑であり、美しい。しかし、今、われわれがつくっている建築や都市が自然で美しいものとはとてもいえない。」(「時が刻むかたち」)
いま、日本の状況は、先生がめざした自然に応答するものの見方や価値観とは真逆の方向へ危険な斜面を降りようとしている。だが、先生を敬愛した多くの仲間がいる。もう一度、われわれはパッシブデザインの本質に立ち返らなければならないと思う。
先生、長いことお疲れ様でした。ありがとうございました。
(写真は北田英治撮影)
by komachi-memo2
| 2013-01-07 13:05
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