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一枚の写真——福沢一郎絵画研究所

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 BLOGにに22年前に亡くなった父のことを何度か書いた。朝鮮から単身勉学のために日本に来たこと、その後画家になることを決意したこと、池袋モンパルナスの住民になったこと、そこで麻生三郎らの良き友を得たこと、戦後、一時韓国に引き戻されるが、日本に戻って真鍋家の養子となり、日本に帰化したこと、自分の味わった悲哀を子供たちに味合わせないために、自分の過去のほとんどを語らなかったことなどである。戦前から父を知る数少ない人たちの思い出に宿る父は、とても面白い快活な人だったようである。バイオリンを弾き、水泳が得意だった。しかし、その明るさの裏には強い絆で結ばれた朝鮮の血族を断ってきた忘れることのできない亡父の内面があったことを今思うのである。「お父さんは年寄りにとっても優しかったよ。あれはね、自分の親不幸があったからなんだよ」84歳になる母はそんなことを言う。
 先日、板橋区立美術館のHさんが国立の実家にいらっしゃった。来年11月に行われる企画展「福沢一郎絵画研究所と仲間たち」(仮称)の取材のためである。福沢一郎は日本にシュルレアリスムを広めた画家として知られるが、当時若い画家たちに大きな影響を及ぼした。亡父もその一人だった。福沢が自宅のアトリエに絵画研究所を開設したのは1936年、研究所の活動は彼が治安維持法で逮捕されるまでのわずか5年間である。亡父は研究所の最も早い研究生だった。福沢一郎を終生師と仰ぎ、死ぬまで交流があった。しかし、研究所当時のことを父は語らなかったし、今となっては知る人はほとんどいない。Hさんは今も健在な父の友人、知人たちに丹念に取材を続けて、私の知らない父のことも知っていた。
 当時の写真がわずか数枚古いアルバムに残されている。それをHさんに見てもらった。一枚の写真には福沢一郎絵画研究所夏期講習会、1937年と裏書きがある。亡父22歳の時の写真である。一番前の黒っぽいジャケットにネクタイが亡父、その右後のメガネにネクタイが福沢一郎である。後列右から二番目に瀧口修造の姿も見える。亡父のポテンシャルがいちばんあった頃かも知れない。1937年は蘆溝橋事件のあった年だ。日中が全面戦争に突入し、「千人針」が流行し、巷に「ここはお国の何百里」の歌が流れていた。彼の祖国では朝鮮総督府が朝鮮語を禁止、君が代斉唱が強制され、1939年には創氏改名が公布される。当時の亡父の心中はどんなだったのだろう。年末に、亡父の絵画を整理して、データに収録しておきたいと思う。
Commented by lbizkorea at 2009-11-26 11:17
こんにちは。
韓国料理レシピが満載のブログ「アナバコリア 韓国料理レシピ集」です。
韓国料理に興味がありましたら、参考にしてみてください^^
Commented by question from Korea at 2017-04-09 12:50 x
Hello, I'm a curator of National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea. I am researching traces of fukujawa ichiro's influnce on Korean young artists.
I am very happy to see this picture. Could you please contact me?
Hyesung Park : abulafia76@korea.kr
by komachi-memo2 | 2009-11-26 10:59 | 国立の記憶 | Comments(2)